作者の言葉ではなく、美術界で一般的とされる説明で、幾つか、そうだったのか、と目から鱗が落ちる文があった。
・デュシャンの作品「便器」は、こんなものでも美術館に置かれると、芸術作品になるでしょ、ということ。
・小林秀雄「美しい物が存在するのであって、物の美しさが存在するのではない。」
・職人のことを英語ではartisanと呼ぶ。artistと語源は一緒。
・織部焼きに見られる、ひょうげもの。端正に隙無く創るのではなく、歪みやひずみがあるほうが風情があるとみなすこと。
マルセル・デュシャンのレディメードシリーズは美術館で一度見たことがある。 便器、も見た。
当時はなんでこんなもんが美術になるんだろう、という素朴な疑問しか思い浮かばなかった。
芸術と言われる物は、芸術の権威がそう言うからである、というところまで考察が行かなかった。
自分にはちょっとショックな文章だった。
俺が20年くらい気づかなかったけど、美術界一般では当たり前のことだったんだ。
アートについて少しくらいは語れる自信があると思っていた鼻先を拳骨で殴られたような感じだ。
芸術とはなにか、ということを深く考察してみようとは思わないが、こういうことを知らないと 自分のやっていることが何だったのか全く判らなくなる事態にもなりえる、と衝撃を受けた。
そういうことをとやかく言う前に、作品を創る方に時間とエネルギーを割きたいと考えていたが、 すこしじっくり時間をかけて、美や美意識の本体と背景を探ってみたいという欲求がでてきた。
改めて思ったが、自分のやっていることは職人芸だ。
建物の設計やらパースやら模型なんかつくっているけど、技術と計算の世界に留まっている。
科学でもない。
芸術でもない。
作品を創っているわけでもない。
極めて資本主義的な経済行為そのものである。
この本は、いろいろなことで自分を気づかせてくれた。
ミュージシャンや芸能人がやたらアーティストと呼ばれることに対するアイロニーを示した本であるが、 私は芸術の世界に住んでいた人の世界観を目の当たりにして、自分の知識の少なさに愕然とした。
その次に、ちょっとおかしいな、と思った。
作者が個人的に感じていることと、美術界一般の風潮として捉えられていることとが、同じ視線で同列に語られているところだ。
たぶん、この人は、なにか昏々と湧いてくる創作欲に支配された人ではなくて、職業として芸術を選択し、モノつくりをしたかった人なんだと思う。
芸術家を辞めてしまった人だが、モノつくりをすることに自分が飽和してしまったんだと思う。
芸能がアーティスト化している現象には私も辟易している。
なんで藤井文也が、石井竜也がアーティストなんだ?
歌手ってアーティストなのか?
それに対する作者の姿勢は、本物のアーティストだった人からの強烈な反論である。
この部分の文章はまだ世間一般の考えかたとは言えないものだと思うが、私個人的には賛成できるものだった。